「かようなものです」と設定した瞬間から凝り固まっていくのだと思います。
「こうだ!」と喝破してしばらくは「ほら、自分の思ったとおりだ」って思う。そこからだんだん現実の自分とギャップが生じてくる。その穴をまた論理で補強する。……これを繰り返すと大変なことになります。
落語家は夜ひとりで歩いているときにも落語を唱えます。その時間のほうが圧倒的に長い。魔力は落ちていないか。
自意識があると魔力は出ない。意識を消すこと。無意識に落とし込んでいく。
「なんで飛べないんだろう」と思っているうちは飛べないのです。
落語家の間には芸談というものが残っています。それは「こうやって発声しろ」とか「こうすれば上手くなる」といったものではありません。昔から楽屋で伝わるエピソードの束です。
「昔こういう人がいて、こういうことがありました」という、事実の記憶です。(もちろん事実から随分と膨らんでいるものもありますが。)
「あいつは何処其処に住んでいて。お母さんがたしかこういう商売で。どちらかというと陰気でね。でもボソッというひと言がなんとなく面白くてね。」という。
次元としては、
「昔こういう魔法使いがいて、空を飛ぶのは下手だったけど、あの人は東の外れの森まで木苺を摘みにいく勇気があったんだ」というのと同じくらいのものです。
大抵は具体的な効用はありませんし、あったとしても「そういうときは池の周りを歩いたほうがいいよ」とか、「生姜を入れて身体を温めたほうがいいよ」というくらいのものです。
でも、そんな話を聞くと、夜道にひとりで落語を唱えても寂しくなくなるんです。
落語に教典はない。
落語家のほとんどは、そんなことは初めから分かっていてずっと実践しているだろうに、僕はやっと最近そのことに気づいたんです、という。
そんな話です。