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落語を預かる

「自分ひとりで出来ること」はたかが知れている。落語家という生業をしているとそんなこと、毎日のように実感する。

「落語を演る」にしても、高座に上がって目の前にお客さんが一人でもいてくれないと成り立たない。

(まあ夜道ひとりでぶつぶつ落語を演っている瞬間もそれはそれで楽しいのだが、それはもう経を読む、祈りに近い行為になる)。

いま自分が語っている落語(古典落語と呼ばれる)自体、何人もの師匠、先輩方から差し向かいで、口伝えで教わったものだ。

「落語に著作権ってあるんですか」とよく聞かれるが、落語はそのような明治以来の価値観にはめられないものだ。(個々の落語家がつくった新作・創作落語はまた別だが)。

落語というのは、日常の会話から湧き出したものの延長線上にある。

それが幾人も語ることによりこねられて、今の形に「なっている」に過ぎない。今日も絶えず変化している。

明治・大正の世で演じられていた落語はSPレコードに残ったものを聞くことができる。

(SPの短い尺に収めなければいけない制約はもちろんあるのだが)現在演じられている落語とはだいぶ違うし、でも同じなのだ。これだけ「違うのに同じ」ことに感動する。

今の世の中に合わせて、落語を少し変えていく、または変わっていく。どこを変えるか、どうやって変えるか。

この変え方を「センス」と呼ぶ。

今のお客さんに伝わるような形にする。より自分のパーソナリティを詰め込んだ形にする。

ドラスティックに変化させる行為をよく「改作」と表現するが、これは適切ではない。お客さんに伝えるための「工夫」と言ったほうがいい。

落語は個人の所有物ではなく、昨今よく使われている「共有・シェア」という、誰でも好きに使ってくださいみたいなものとも違う。

僕の感覚では、おすそ分けで汲んでもらった水をひしゃくに貯めて、こぼれないように預かっている感覚。

ひしゃくを持って歩いているうちに、自分では水平なつもりでもこぼれてしまう。色んな場所の湧き水からちょっとずつ足していく。

静かに歩くのが得意で、汲んでもらった全然こぼさない人もいれば、はつらつに歩いてすごくこぼす人もいる。

すごくこぼしたことで色んな場所の湧き水を足していったら「この水いいね」ってなることもある。

お水だから、誰が使ったっていいっちゃいいのだけれど、こっちの町の水源とあっちの町の水源は違うんだから、あっちの水源を使うときは川上にいる人にお礼を言おう。そんなものだ。

一人で生きていかねばならぬのだが、一人では生きていけない。